悪鬼流の始まり【歴史1】

歴史の流れ

悪鬼流

いつからか我々は悪鬼流と名乗っている。最初は麻雀を覚えるために集まった数人が自宅で手積みの卓を囲むよくある風景だ、そして経験のある人が教えながら麻雀を打つ。少し違ったのは誰もが麻雀をギャンブルと捉えていない所だろうか。古き良きゲーセン時代の脱衣麻雀、アミューズメントにおける麻雀格闘倶楽部やMJ、ハンゲームの麻雀3、ブラウザゲームである天鳳、スマホゲームである雀魂。雀荘で打つギャンブル思考な麻雀よりも健全なイメージのほうが多い時代だ。時は2019年、ちょうどMリーグという「麻雀のプロスポーツ化を目的としたリーグ」が開催され始めたあたりだ。

健康麻雀である

ギャンブル思考で麻雀をしている人たちによく言われる言葉がある。「金を賭けないで何が面白いの?」だ。あぁ、この人は麻雀を楽しめていないのだなと感じる。数々の雀荘や麻雀コミュニティで打ってきた私が経験した麻雀が打てなくなる原因は「パンク」である。麻雀というゲームは必ず勝者が決まり敗者が存在する。1-1の引き分けだったね、という事が非常に少ない。そういったゲームに金を賭けてしまえば必ずどこかで金銭問題に発展するケースが多かった。

風速0.1なども経験した事があるが、こちらはまた違った意味で麻雀の面白さが殺されていると感じる。金を賭けているから緊張感や恐怖感が生まれる、賭けている金額が少ないから打牌が甘くなる。こういったメンタル面でのプレッシャーは麻雀というゲーム外の出来事であり、それこそ大富豪 vs 貧民の構図になれば麻雀力とは違う部分の比べあいになってしまうだろう。

麻雀の面白さとは「勝つ」こと

さてここまで健康麻雀を推している悪鬼流だが、麻雀のどこが面白いのかという問いに答えようと思う。麻雀というゲームは非常に「運」の要素が強いゲームだ。どちらかというと「勝つ実力」よりも「負けない実力」が求められるゲームだと私は感じる。我慢の連続であることが多く、悪鬼流雀士はよく「理不尽を理解するゲーム」だと嘆く。

当たり前のことを書くが、勝者を決めるゲームであるので勝つことが面白い。では勝者以外は面白くないのかというとそうではない。3軒リーチをしのぎ切った、役満立直を後追い鳴き仕掛けで蹴った、ダマテンの国士を警戒して当たり牌を止め切った。こういった瞬間にカタルシスを感じる人は多いはずだ。東場で大きく凹んだがオーラスアガリでなんとか2着になった。この場合はどうだろうか、もちろん「勝ち」である。

極端な話をすれば特定の誰かを勝たせるための接待麻雀では自分が負けることが「勝ち」なのである。麻雀は参加者全員が勝者になれる。負けた理由に原因を見つけた場合は「勝ち」である。全力を出して負けた場合は運が足りなかっただけで実力的には「勝ち」である。麻雀コミュニティにおいて全員が「この中で自分が一番実力が強いな……」と思っている状態が良好なのだ。メイド喫茶のように。

最初期の悪鬼流はイカサマが横行していた

悪鬼流麻雀では基本的に80~100半荘程度を1シーズンとして点数を集計し順位を決めることで誰か強かったのかを決めている。最初期はよくあるゴム製のマットをこたつの上に敷いてドンキで売っている小さい練り牌を使った自宅マージャンである。ぶっこ抜きから果ては燕返しまでイカサマのオンパレードといった所だった。金を賭けていないからといってまるで健全ではない状態だ。

また最初期のシーズン記録はほとんど残っておらず、自動卓を導入したシーズン第3期以降からが本格的な悪鬼流麻雀の始まりと認識している。ここから麻雀を覚えるための特殊なローカルルールが作り始められたのだ。

次の歴史:まずは1着を記録し始めた【歴史2】

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